2010年02月10日
高杉 晋作

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         高杉 晋作(たかすぎ しんさく、

天保10年8月20日(1839年9月27日) - 慶応3年4月14日(1867年5月17日))

は、日本の武士(長州藩士)。幕末の長州藩の尊王倒幕志士として活躍。

奇兵隊など諸隊を創設し、幕末長州藩を倒幕に方向付けた。

諱は春風。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は東行。

変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。

のち、谷 潜蔵と改名。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。


生涯

長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)・

みちの長男として生まれる。


10歳の頃に疱瘡を患う。漢学塾を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学、

剣術も学ぶ。

安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、安政5年(1858年)には

藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。

安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられるとその獄を見舞うが、

松陰は10月に処刑される。

万延元年(1860年)11月に帰郷、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の

次女、まさと結婚する。


文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦丙辰丸に乗船、江戸へ渡る。

8月には東北遊学を行い、佐久間象山や横井小楠とも交友する。

文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から

中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、1854年からの民衆反乱である

太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。


長州藩では、高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、

高杉も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)たちと共にともに尊攘運動に加わり、

江戸・京師(京都市)において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。


文久2年(1862年)、高杉は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたの

に、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。

藩政府でこれを断行できぬならば……」と論じていた。

折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと

同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、

有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎)[1]が相談した。

しかし久坂が土佐の武市半平太に話したことから、これが土佐前藩主山内容堂を通して

長州藩世子毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命

ぜられる。謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作った。

この過程で、高杉は頼りになるのは長州の志士だけだとする長州ナショナリズムを形成し、

長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、専ら桂や久坂が担当することとなる。

文久2年12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の

英国公使館焼き討ちを行う。

また、幕府の罪人として処刑された松陰の遺骨を白昼堂々小塚原から世田谷に移して会葬する。

これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では高杉を江戸から召還する。


文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、

長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する。

高杉は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない

志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件

の責任を問われ総監を罷免された。


京都では薩摩藩と会津藩が結託した宮廷クーデターである8月18日の政変で長州藩が追放され、

文久4年(1864年)1月、高杉は京都進発を主張する急進派の来島又兵衛を説得するが容れら

れず、脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に

投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、

来島は戦死、久坂玄瑞は自害する。8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの

4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を

任される。時に高杉晋作、24歳であった。


交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、

連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。高杉はほぼ全ての提示条件を

受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、

結局は取り下げさせることに成功した。

これは清国の見聞を経た高杉が「領土の期限付租借」の意味するところを深く見抜いていた

からで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は

自伝で記している。ただし、このエピソードは当時の記録にはなく、ずっと後年の伊藤の回想に

依拠しているため、真実か否かは不明である。


高杉晋作(中央)と伊藤博文(右) 功山寺挙兵の銅像幕府による第一次長州征伐が迫る中、

長州藩では俗論派が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派に

よる正義派家老の処刑を聞き、再び下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔(伊藤博文)率いる

力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。

後に奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁椋梨藤太らを排斥して

藩の実権を握る。同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、

反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより、攘夷派・俗論派に命を狙われたため、

愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋に

より帰郷。


慶応元年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ

、そして同年9月29日、藩命により谷 潜蔵と改名する。慶応3年(1867年)3月29日には

新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる。


さらに慶応2年(1866年)1月21日(一説には1月22日)、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・

土方久元を仲介として、晋作も桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共に進めていた薩長盟約

が京都薩摩藩邸で結ばれる。


5月には伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、長崎で丙寅丸(オテントサマ丸)を単独購入。


6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として丙寅丸に乗り込み、周防大島沖に停泊

する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還。

小倉方面の戦闘指揮では、まず軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させた。

その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させた。

その後さらに攻勢に出るも小倉城手前で肥後藩の猛反撃に合い、一時小康状態となる。
 
しかし、幕府軍総督小笠原長行の臆病な日和見ぶりに激怒した幕府軍諸藩が随時撤兵し、

7月には将軍徳川家茂の死去の報を受けた小笠原がこれ幸いと戦線を離脱したため幕府敗北

は決定的となり、この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)11月の

大政奉還への大きな転換点となった。しかし、晋作自身は、肺結核のため桜山で療養生活を

余儀なくされ、慶応3年(1867年)5月17日(太陽暦)、江戸幕府の終了を確信しながらも

大政奉還を見ずしてこの世を去る(享年27)。臨終には、父・母・妻と倅がかけつけ、野村望東尼

と山県狂介、田中顕助が立ち会ったとされるが、田中の残した日記によれば、彼はその日京に

おり、詳細は定かではない。墓所は山口県下関市。


なお、木戸孝允・大村益次郎らによって、現在の靖国神社に、東京招魂社時代の始めから

吉田松陰・久坂玄瑞・坂本龍馬・中岡慎太郎たちと共に表彰・鎮魂され、祀られている。


 人物 
 
墓所・東行庵 (下関市)

墓 (東行庵敷地内)辞世の句:「おもしろき こともなき世を おもしろく」

下の句は看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」とつけたと言われている。

しかし、この句は前年にすでに読んでいたという記録も残っており、正確ではないという説もある。

都々逸「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」は一般に晋作の作であると言われている

(木戸孝允作の説も有り)。

この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われている。

顕彰碑には「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。

これ我が東行高杉君に非ずや…」 とある。これは伊藤博文が高杉晋作を評した言葉である。

高杉は長身ではなく小柄であり本人もそれを気にしていたため直立して撮った写真は現存しない。

また小柄ではあったが長刀を好んで愛用していた。

その姿は刀が長いため引きずって歩いているように見えたという。

師である吉田松陰は高杉の非凡さを逸早く見抜き、剣術ばかりであまり学業に本腰を入れない高

杉を奮起させるためあえて、同門で幼馴染でもある優秀な久坂ばかりをべた褒めしたという。

高杉は悔しさをバネに自身の非凡さを発揮。久坂と肩を並べお互いを切磋琢磨しあうなどとても

優秀であったという。

公金と私金の区別がつかない(つけない?)人物だった。

一度日本に駐在していた英国人兵に頼まれ刀を見せた事があったが、武士の魂ともいえる刀を物

めずらしいと何度も見せてくれと言われその事を遺憾に感じた高杉はそれ以後決して見せる事は

無かったという。

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